私が葬儀社である㈱報恩社を創ろうとしたのは、尊敬していた『週刊読売』の山村圭一(仮名)さんの臨終に立ち会ったからです。
昭和58年5月4日、昼過ぎのことでした。山村さんの臨終の場で私は、山村さんともども心を一に唱題をしていました。やがて山村さんは唱題の中、亡くなりました。
この敬虔な創価学会員の死に立ち会わなければ、私は創価学会専門の葬儀社の創立を考えなかったと思います。
当然のことながら、葬儀社を始めてすぐに収益が出たわけではありません。半年ばかり、お樒を売って糊口を凌ぎました。この私の〝暴挙〟ともいえる活動を支えてくれたのが、母であり妹でした。時には妻や弟、そして小学生だった一人息子も手伝ってくれました。お樒を売ったのは、主に豊島区の東京戸田記念講堂と巣鴨駅を結ぶ細い道でした。母は寝たきりの父がいるのに、町田市からわざわざお樒を売りに出てきてくれました。
経済的に大変な中、母は私を広島から東京理科大学理学部物理学科に進学させてくれました。ところが、私は同校を中退し、今、道端でお樒を売っているのです。それを手伝う母の心中は、いかばかりであったでしょう。しかし母は愚癡の一つも言わないで、中心になって、てきぱきと働いてくれました。㈱報恩社は昭和58年6月に法人設立しましたが、7月から11月までは、道端でもっぱらお樒を売っていました。
8月24日、葬儀社をするということで、池田大作先生にご報告をいたしました。池田先生は、この時、㈱報恩社の三指針として「努力・誠実・忍耐」を定めてくださいました。㈱報恩社はこの三つの指針があったからこそ、今日まで来ることができました。
私は、㈱報恩社を立ち上げる前は、出版関係の仕事をしてきました。また著作物も多数あります。今後も生命のある限り、書き続けていきたいと考えています。
末法にあって日蓮大聖人の仏法を修行する信徒たちは、必ず狂った僧の迫害を受けます。
それが僣聖増上慢です。僧形をなしている者たちの中に悪鬼が入り込みます。通常ならば僧の生命に悪鬼が住まうことなど、想像すらできないことです。
しかし、必ず悪鬼は僧形をなした者の生命に入り込み、信者の信仰心を破り、地獄に堕とそうとします。
「最蓮房御返事」に曰く。
「予、日本の体を見るに、第六天の魔王、智者の身に入って、正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼はその身に入る』とは、これなり」
悪鬼が破和合僧を目的として画策した第一次、第二次宗門問題は、その代表的な事例です。
私は、長年にわたり本を書いてきました。よって、私はあらゆる方面に一般の方では理解できない人脈を持っています。
そのため、宗門問題などでは、創価学会のために働くことができました。栄誉なことです。第二次宗門問題で私が関わったことの、ほんの一部を以下に記しておきます。
平成2年12月25日、私は札幌に行き、日顕の懐刀であった日正寺住職の河辺慈篤を訪ねました。それは創価学会本部より、
「今、創価学会側の誰が連絡しても宗門首脳は会おうとしない。宗門首脳の考えていることが、さっぱりわからない。河辺と直に会って本心を探って欲しい」
との依頼を受けたからです。
河辺は、前もっての連絡なしに東京から札幌の寺を訪ねてきた私のことを、最初は訝っていました。つまるところ、私が創価学会本部の意向に沿い、河辺を訪ねてきたのではないかと疑っていたのです。
その河辺の疑念に対し、私個人の判断で来たことを述べ、
「僧俗和合がなければ、広宣流布はできません」
との建前を譲りませんでした。
私が札幌に来たのは、河辺が宗門の中核として間違いなく参画しているはずの創価学会に対する策謀を具体的に知るためでした。河辺の本心を探るために、さして重要でない事柄を河辺が話したとしても、熱心に聞いている風を装っていました。
私が感服していると思った河辺は、私が内心、動揺しているのではないかと推量し、話し合いのある時点から次々と一気呵成に本心を吐露し始めました。それらの内容は、ことごとく宗門首脳の本心を代弁したものでした。宗門が何を策し、どのように実行し、創価学会の組織を切り崩し、創価学会員を我が檀徒にしようとしているかが、よくわかりました。
宗門は創価学会切り崩しの最終的作戦として、逆らえば「戒壇の大御本尊」にお目通りさせないということを考えていました。それは河辺の経験に基づくものでした。四国の大乗寺で大規模な檀徒の造反があった時、河辺が乗り込んで行き、「造反する者は戒壇の大御本尊にお目通りできなくなる」と言って切り崩しにかかったところ、1000世帯ほどの造反者が30世帯程度に収まったという話でした。その経験から河辺は、信徒組織の切り崩しに対して大変な自信を持っていました。
河辺は両手の指を組んで頭の上まで揚げ、「ドーン」と言いながらその両手を上から下に降ろしました。河辺が「ドーン」と言って降ろしたのは、「戒壇の大御本尊」の扉を擬したものでした。
「猊下に逆らえば、『戒壇の大御本尊』にお目通りさせない。そうなれば、創価学会員も宗門の言うことを聞かざるを得ない」
私はこの話を聞きながら、宗門は末法の民衆救済の御本尊をもって、和合僧団を破壊しようとしていることがよくよくわかりました。
この河辺との札幌・日正寺における話し合いは、冒頭に書きましたとおり12月25日のことでした。不思議なことがあるもので、翌26日夜、私は創価学会攻撃の作戦書(暗号名「C作戦」)の存在を知ることとなりました。その作戦書には、日時の経過とともに、どのような具体策をもって創価学会を攻撃するかが詳細に書かれていました。驚いたことに、この作戦書の日付は12月あるいは1月ではなく、8月になっていました。宗門は夏に実行することを初めは目論んでいたのです。宗門は練り上げた秘密の作戦書により、短期間で創価学会に大打撃を与えることを謀っていました。それ以外にも複数名からもたらされた情報を解析したことにより、「C作戦」がいかなるものであるか、その全貌が明らかとなってきました。
「C作戦」が発動されたのは、平成2年12月27日のことでした。宗門が僣聖増上慢の意義づけどおりの暴虐性をもって創価学会、とりわけ池田大作創価学会第三代会長に対する攻撃を始めました。宗門は宗規改正に事寄せ、池田先生を総講頭より罷免しました。
いま、簡略な形であれ、「北林回想録」を『一粒の白い砂』(副題「善に順じて悪に抗う」)と題し、私の回想の一部を公開するのは、それなりの理由があります。
私が㈱報恩社を創業してから、39年が経ちます。
創業の時、35歳であった私は、この11月で74歳になります。この歳を考えた時、いま私が残すことのできる最小限の事実の開陳は、許容の範囲であると思います。
今回、明かした『回想録』は、大きなうねりのような真実のほんの一部で、譬えれば漣のようなものです。
評価はいろいろあると思いますが、㈱報恩社及び私に関わる出来事の一部を公開し、葬儀社である㈱報恩社が信仰心をもって団結し、総体として高邁な構想のために今後も前進していくことを願うものです。
2021年11月
㈱報恩社 代表取締役 主 幹