昭和54年4月24日、池田大作創価学会第三代会長は勇退されました。昭和35年5月3日に会長に就任されましたが、爾来、およそ19年をもって、その職を辞されました。
池田会長を辞任に追い込んだのは、悪侶の権威を操っていた山﨑正友です。私は山﨑のそばにいて、山﨑がまともに勤行すらできない男であることを知っていました。山﨑は大恩ある池田先生に対し、仇をもって報いたのです。山﨑は池田先生を攻撃するにあたり、悪侶の権威を存分に利用しました。その悪侶とは、日蓮正宗において法主、猊下と呼ばれる男でした。
山﨑が細井日達を取り込むにあたり、5000万円の金を渡したことについては、これまで本紙において詳述したとおりです。
その日達は、昭和54年7月22日に突然、亡くなりました。この死の相について山﨑は、
「猊下の直接の死因は、腹が硬くなって割れた」
と親しい者に話していました。法主の本葬は8月8日に大石寺において行なわれました。この日は夏の中でも抜きん出て暑い日でした。その天日の中を、山﨑は在家の代表として錫杖を持って歩きました。
この時、山﨑はねぎらいを言ってくれた者に対し、次のように述べました。
「なに、大したことじゃないよ。銀行の関係者を僕が葬式に呼んでおいたからね。あの連中の前でシャン、シャン、シャン、シャンという行列に僕が池田さんと並んで歩んでいるのを見たら、あいつらはいくらでも金を貸してくれるんだよ。だからあのシャン、シャンという金棒の先から札が降ってくると思えば、どうってことないさ。あれぐらい歩くことなんか」
驚くべき言い草です。
山﨑にとってみれば、亡くなった法主は自分に利益をもたらさないのですから、何の冥利もないのです。
日達の死が7月。阿部日顕の登座が8月。私と河辺慈篤の話し合いが、8月下旬から9月の上旬ごろに行なわれました。
山﨑にしてみれば、先の日達と同様に日顕もまた、自家薬籠中のものにするのに、何の造作もないと思い上がっていたことでしょう。
創価学会は日顕という者が、創価学会に対する宗務行政をどう進めるのか、はたまた、どのような人柄の者か、慎重に探る必要がありました。殊に山﨑に対して、日顕はどのような挙に出るのか、それもまた大いに関心の対象となることでした。
ところが、日顕はこれまでにない山﨑像をイメージしながら、山﨑と会ったのです。
その時、日顕は山﨑に対し、激しく次のように述べました。
「あんたは大ウソつきだ。今後、本山への出入りを厳禁する」
私は新宿駅南口のホテル・サンルートで、日顕の懐刀と言われていた河辺と都合、5回ほど会いました。
河辺は5回の会談うち、後半の2回は前半の3回で話題になったことを、重複して聞き返したのです。私は、何が目的で重複した質問をしてきているのか、意図がわかりませんでした。それでも、根気強く話をしました。
とはいえ、この懐刀は、頭の切れが悪いのではないかと、率直に思いながら情報について話をしました。
重複した内容の話を何度もすることは、本当に疲れました。それでも何か役に立てばと誠心誠意、話し続けました。
河辺は、最後に次のように言いました。
「私はあなたの話を信用します。前半に話されたことと、後半に話されたことは、一致しています」
(以上第10報)