「小柄な山﨑正友を突然、三人の男が取り囲んだ。
『警視庁の者です。緊急にお話をうかがいたいことがあるので、同行願います』。一瞬キョトンと男たちを見上げたあと、山﨑の顔はみる間にあかく染まった。二十四日午後二時四十二分。東京四谷の山﨑の自宅前、『新宿通り』の歩道上。この八ヶ月にわたって社会をにぎわせた創価学会攻撃キャンペーンの『主役』が一転して刑事事件の『主役』に転じる〝その瞬間〟は、まことにあっけなかった。『本当に警視庁の人なんでしょうね』。手はブルブルふるえ、声もかすれがち。待機していた小型乗用車の後部席に押し込められるように乗ると、そのまま警視庁に連行された。」(昭和56年1月25日付「朝日新聞」)
「朝日新聞」は、山﨑が悪質な犯罪者であることを見抜いており、逮捕の瞬間を報じることこそ、公器としての役目だと考えていたのではないかと思います。その点、犯罪者に好き放題の嘘を言わせ、被害者を苦しめることに何の頓着もない『週刊文春』とは、天地の違いがあると思いました。
TBSの「報道特集」が始まったのもこの頃でした。私はこの「報道特集」のインタビューに応じました。場所は、私の住んでいたマンションの自宅玄関扉の前でした。その扉は環状7号線に向いていました。
私は、
「ここでいくらインタビューしても、音はうまく録れないのではないですか。よければ家の中で、インタビューしてください」
と提案しました。
いまだもってわからないのですが、なぜかTBSのテレビクルーは、環状7号線に面した外廊下でインタビューをしたがるのです。
「何の意味があるのだろうか。まあ、先方が外廊下でインタビューをしたがっているものを、私がわざわざ部屋の中に入れることもないか」
と考え、淡々と質問に答えました。
このインタビューを受けた翌日、TBSから電話が入りました。
「うまく音声が録れていないので、TBSまで来てほしい」
私は、
「言わんこっちゃない」
と、心の中でつぶやきました。
ともあれ、私を含め山﨑やその他、数名の者に対するインタビューを中心として「報道特集」が放送されました。
それを観て、私は怒髪天を衝く思いでした。山﨑が中心となって、その番組は構成されていました。山﨑はホテルの一室で優雅に振る舞い、嘘の言いたい放題といったありさまでした、
私の場合は、環状7号線に面した外廊下が映され、インタビューが進められていたのですが、インタビューそれ自体は、私がTBSに出向いた時、すなわち2度目のインタビューが使用されていました。
この「報道特集」の放送がなされたあと、私はTBSに抗議の電話をかけました。山﨑と私との映像の長さ、インタビューの環境に大きな差があり、これは不公平すぎました。
そのことを抗議すると、
「北林さん、おもしろい映像がまだ未公開です。もう少し待ってください。充分、納得されると思います」
と、番組責任者は述べました。
のち、TBSの「報道特集」で、山﨑が逮捕され押送用バスに乗せられている場面が放送されました。
山﨑はビデオカメラに撮られることを恐れ、身をこごめて右座席に座ったり、左座席に移ったり、狭い車中をまるでコマネズミのように飛び回っていました。
それまで〝正義の内部告発者〟を気取り、憎々しいまでの演技を続けていた山﨑とは、比べようもない哀れさでした。
(以上第13報)