山村圭一さんの崇高な臨終のありかたを見て、私は、いくつか考えていた仕事のうち、葬儀社をやることに決めました。妙法に縁をし、信仰をまっとうされた創価学会員のご葬儀をさせていただくことができれば、これ以上の幸せはないと心底、思いました。昭和58年6月、㈱報恩社を設立しました。私は35歳でした。
法人設立したとはいえ、資金もなければ、葬儀についての方法もまったく知らない私でした。そこで糊口を凌ぐために、創価学会の会館のそばでお樒売りをしました。路端で物を売ろうとしたのは、商売のそもそもの始まりが、「市」を起源としているのですから、そこで物を売れば、見ているだけでは気づかない商売の要領がわかると考えたからです。
そして編集者や文筆家として生きてきたこれまでの人生を捨て、頭を下げて愛想よく商いができるように、自分の性根を叩き直すため、敢えて路端での物売りを始めたのです。
このとき母は、父ともども広島県の呉市から東京都町田市に引っ越してきていました。私の2つ歳上の姉夫婦と同居し、父が洋服の仕立てをしながら生計を立てていました。ところが上京して数年後、父は脳梗塞で倒れ、ほぼ寝たきりになりました。
母は生活のために、町田駅前の小売店「ミドリヤ」で清掃の仕事をしていました。母は、私が葬儀社をやるという話を聞いて、その清掃の仕事を辞め、私の仕事を発足の時から支えてくれたのです。
お樒売りは、主に豊島区の東京戸田記念講堂と巣鴨駅を結ぶ路上で行ないました。会合終了の20時半過ぎころから40分程度が商いの時間でした。
お樒を売り終え、母が巣鴨駅で電車に乗るのが21時過ぎ。町田市の家に着くのが22時半ごろ。この巣鴨でお樒売りをしていたころの㈱報恩社の所在地は、先述した新宿区愛住町でした。母は、ほぼ毎日、昼前には愛住町の会社に出社してくれました。そして母を中心に、半日をかけて陽の当たらない部屋でお樒を洗ったのです。
母は貧しい中で、私を東京の大学にまで行かせてくれたにもかかわらず、その恩に報いるどころか、私は非道にも路端のお樒売りを手伝わせ、葬儀社をやると言っているのです。この親不孝な私に対し、母は愚痴ひとつ言わず働いてくれているのです。そして町田市に帰れば、一日中、母の帰りをベッドの上で待っている父の面倒を看なければなりません。
この愛住町での会社立ち上げに、ともに苦労をしてくれたのは、この母であり、そして妹の玲子、アルバイトに来ていた時光浩二君や阿部哲哉君などでした。この3名は、今でも会社の中核メンバーとして働いてくれています。
当時、会社にあったのは白木の祭壇が一組だけで、あと何対かの飾り物だけでした。
白木の祭壇は、私への名誉毀損を行なった週刊誌発行の出版社より得た損害賠償金で買いました。
お樒売りを巣鴨にあるスーパー西友のシャッターが降りている前でやっているとき、見慣れた後輩が声をかけてきました。その人物は大崎信行君といい、私が豊島区の学生部本部長をしていたとき、駒込に住んでいた班長でした。
「北林さん、本当にお樒売りをやっているんですね」
「そうだよ」
「葬儀屋さんもやっているって本当ですか。名刺を持っているのだったら、私にください」
そこで1枚の名刺を渡すと、
「5枚くらいくれませんか」
と言われたので、そのとおりに5枚の名刺を渡しました。これが2件のご葬儀に結びついたのです。小さな一歩が、大きな未来を開いてくれたのです。
(以上第17報)