㈱報恩社の発足時、私は、まったく葬儀業の経験がありませんでした。
ただ、私は実父を5歳の時に亡くしました。昭和28年5月3日のことです。朝に発病し、夕べには骸となってしまいました。その間、2人の医者が来てくれましたが、目立った医療行為も施されることはありませんでした。
「死にとうない。死にとうない」
と痰を喉に引っかけながら声を絞り出す父を、私は枕元に座ってずっと見ていました。父は喉に引っかかる痰で、呼吸もままならない状況でした。それでも効果的な治療は何も行なわれることなく、割り箸に脱脂綿をつけクルクルと回し、喉にまとわりつく痰を取るだけでした。
やがて父は、息を止めてしまいました。
私は、父が亡くなったこの時から、生と死について考えるようになりました。それが契機となり、私は14歳のときに創価学会に入会したのです。この時、私は『折伏教典』に掲載されていた戸田城聖創価学会第2代会長の著である「生命論」を読み、その深さに感動しました。爾来、この「生命論」は、私の心を捉えて離しません。
では、㈱報恩社の発足時について記します。
㈱報恩社は、私が35歳のときに設立した会社です。しかしながら、私は葬祭業の経験などまったくありませんでした。そこで「聖教新聞」の求人欄に㈱報恩社としての広告を打ちました。
その広告を見たということで、杉田一郎(仮名)という人が応募してきました。この人は、互助会での葬祭業の経験者でした。杉田が出社したのは7月4日(月)でした。私は葬祭業についてズブの素人でしたから、この杉田を頼りにして、葬祭業を展開しようと考えていました。
私は、杉田が「聖教新聞」の求人広告を見て応募してきたという経過から、しっかり信心をしていると思い込んでいました。
しかしながら、この私の思い込みは、根底から崩されてしまうのです。
杉田は、およそ3カ月近く経っても、まったく1件の葬儀の依頼もない現状をみて、私に提案をしてきました。その提案こそ、魔の誘いだったのです。
9月24日(土)のことでした。杉田は私に辞表を出し、会社を辞める意思を鮮明にし、次のように話しました。
「あなたが創価学会のことを、どのように思っていたにしても、創価学会はあなたのことなんか、まったく考えてもいないし、相手にもしていませんよ。創価学会が、あなたのことを思っているならば、入ってくる葬儀の件数は、まったく違いますよ。
お見受けしたところ運転資金もないようですから、まずお金を集めましょう。1回から2回であれば、互助会としての許可はいりません」
創価学会員を相手に、会費名目でお金を集めるなんて許されることではありません。
中学3年生のとき、私は創価学会に入会しました。それから20余年、この間に積み上げた福運、そして創価学会での信用、ことごとくを一瞬にして失いせしめる杉田の言葉でした。この人物は、解雇しなければならないと思いました。しかし、いつ葬儀が入ってくるかもしれませんので、少しでも杉田の退職までの期間を延ばそうと考えました。したがって杉田の辞表は、一時預かりとしました。
その日の夜、家に帰り、懸命に唱題をしました。
「朽ち果てても、甘言に弄されるようなことはしない。こうなったら経験も何も関係ない。自分一人でもやる。仏天の加護は絶対にある」
9月26日(月)から3日間、杉田に葬儀の進行の仕方、留意点などを教わりました。あとは私が実践の中で体験していくしかないと思いました。
(以上第18報)