昭和46年の新春、私は創価学会の組織から連絡があり、創価学会本部において本部職員になるための面接を受けるように言われました。結果、運良く合格することができました。当時は本部一括採用で、現実に勤める会社については、合格の後、本部より通知が来るシステムになっていました。
私は、㈱新社会研究所に配属されることになりますので、そちらに電話をしてくださいと言われました。私が㈱新社会研究所に電話をしますと、法人を立ち上げている途中ですから、急いで来るようにということで、遅くとも2月早々には来て欲しいということでした。
2月になってすぐ、私は㈱新社会研究所に連絡をしました。明日からでも来て欲しいとの要望でしたので、私は翌日に出社しました。
そこで行なわれていた業務は、月に1回、発行する予定の『情報パック』の準備でした。 私は編集部に配属されました。私に与えられた最初の仕事は、その『情報パック』の創刊号に、三菱総合研究所の設立メンバーで、後の会長である牧野昇氏に原稿を書いていただくというものでした。私は三菱銀行の人とともに、三菱総合研究所に出向き、牧野氏へ『情報パック』に掲載する原稿の依頼をしました。
原稿依頼はスムーズに終えたのですが、同行してくれた三菱銀行の方が、緊張のうえに緊張をしながら牧野氏に話をされるのを見て、私までガチガチに緊張しました。
しかしその銀行の方から見れば、私の緊張の度合いは少なく見えたのでしょう。牧野氏と話しながらきつい顔つきで何度も私を睨みつけるので、閉口しつつも、社会で仕事をするということはこれほど厳しいものかと、脇に汗しながら噛み締めたものでした。
こうして編集者としての見習い期間を過ごしていた3月の末、㈱新社会研究所の所長である後藤隆一さんより、次のように言われました。
「北林君、そろそろ卒業証明書を提出してくれないかな」
「私は東京理科大学理学部物理学科の3年生です。本部での面接の時も、学生部幹部カードで面接を受けています。当然のことではありますが、その幹部カードには『3年生』と書いてあります」
ソファの向こうに座っていた後藤さんは、
「君、今さらそれはないよ〜」
と、驚きのあまり立ち上がりました。
その上で後藤さんは、
「急ぎ本部に行って相談してみる」
と言いました。2、3日後、後藤さんから会社に来るようにとの連絡がありました。話の内容は、次のようなものでした。
「本部に行って北条さんと話をしたら、『短大卒で入れとけ』とのことだった。よって、君を短大卒として採用する」
「ありがとうございます」
後藤さんも、明るく笑顔で喜んでくれました。おそらく私は、創価学会本部で面接を受けた者のうち、最後の温情入社なのだろうと思います。
ともあれ、私は『情報パック』で原稿を書いたり、割りつけをしたり、編集依頼をしたりなどなどの編集者としての基本的な訓練を受けました。このことは、その後の私にとって大変に有益なものとなりました。
また後藤さんご夫妻には、私の結婚にあたり、媒酌人としての労もとっていただきました。どれほど縁の深い方であったのだろうと思います。ただひたすら、感謝を申し上げる次第です。
さらに後藤さんと私の間には、不思議な縁があります。日蓮正宗の重鎮である河辺慈篤と私を会わせたのは、ほかならぬ後藤さんでした。
この密談は都内のホテルで昭和54年に5回ばかり行なわれました。
(以上第5報)