河辺慈篤が私の記事を読んで会いたがったのは、日本の宗教界の動向、宗教界とメディアとの連携の仕方などについて、聞きたかったからです。
私は昭和48年1月より、山﨑正友に命じられ『宗教評論』という月刊誌の編集長をしていました。したがって宗教団体とマスコミ、とりわけ週刊誌との関係について、詳しく知る立場にありました。
その月刊誌『宗教評論』は、昭和53年に終りました。それから間もなく、私は部下1名とともに宗教情報誌『現代宗教研究』を発刊しました。したがいまして、私は宗教界の各所に情報源を持ち、新たな事が起これば、裏の裏まで知ることができました。
そのような立場でしたから、宗教界とマスコミとの関係について、他者よりも抜きん出て知ることができたのです。
それにしても昭和54年は、日蓮正宗僧俗において特別な年でした。
創価学会の池田大作第三代会長が、4月24日に勇退。日蓮正宗の法主であった細井日達が7月22日に逝去。
そこで阿部日顕が新たな法主となるのですが、創価学会を内包できるまでの指導性はなく、日顕の登座は宗内外に混乱を生むだけでした。
私が日蓮正宗執行部に、信仰的統率力がないことを知ったのは、昭和54年8月、私が31歳のときでした。宗門の重鎮である河辺が、私に会いたがっているということを聞いてからのことです。
どうしてそのような高僧が、いきなり私に会いたがっているというような話が降って沸いたのか、到底、理解できませんでした。
「後藤さん、その高僧は、何のために私に会いたいと言っているのですか」
「北林君が『第三文明』に書いている原稿を見て、この筆者に会いたいと言っているんだ」
「しかし『第三文明』に書いている記事は、匿名ですよ。どんな視点から、どの記事に興味を持たれたのですかね」
「『絹川徳成』というペンネームで書かれている記事に興味を持たれている」
「ペンネームで書かれているのだから、真実の筆者名は秘匿されるべきで、一体、誰が後藤さんに私が書いていると教えたのですかね」
「北林君、そんなに難しく考えなくてもいいんです。東洋哲学研究所の所長である私が『第三文明』の編集部に電話を入れ、あなたが真実の筆者ということであれば、新社会研究所の所長と部下というかつての関係性も『第三文明』側は知っているのだから、あなたの名前を教えても不信義ではないでしょう」
媒酌人までしていただいた後藤さんに、私がこれ以上、何かを言うことは非礼ともいえます。私は「絹川徳成」が私のペンネームであることを認めました。その上で、
「お互い不利益にならないためにも、本名やポストなど、本人の特定に至るような情報は開示しないという前提であるならば、お会いしましょう」
と述べました。
私は急遽、創価学会本部に赴き、経過報告をしました。
会うべきか会わざるべきか、という大前提については、「会うべし」との判断を受けました。
「今の宗門、すなわち阿部体制は今ひとつ読めない。用心して相手の考えを聞き出して欲しい」
言うは易く行なうは難しです。驚いたのですが、坊さんの世界にも創価学会の幹部カードに酷似したものがあったのです。そのカードには、本人の顔写真も添付されていました。
ところが、みんな同じ坊主頭ですから、その顔写真を見て誰彼を判別するのは不可能でした。
(以上第6報)