葬儀社をやろうとの決意が定まったのは、昭和58年5月4日のことでした。
私を可愛がってくださった『週刊読売』の山村圭一さんが亡くなっていく姿を見て、私は創価学会員の死が、いかに尊いものであるかを知ったのです。
山村さんは、飯田橋の東京厚生年金病院で、癌と戦っていました。病院の屋上で車椅子に乗った山村さんと奥さんと私の3人で話をしました。この時、山村さんは、
「『一書の人を恐れよ』という箴言は、『読む側』にも『書く側』にも言えることだ。いま大山(北林)君が書いている『戦後史の中の教団』は秀でたものだから、必ず完成し、自らの一書と成すべきだ」
と説諭してくれました。山村さんと話しているうちに、創価学会本部、とりわけ広報室の者が、誰も見舞いに来ていないことがわかりました。
「それはあんまりだ」
山村さんは、長きに渡り広報室との行き来があり、さらに文芸部においては後進の者の育成に労苦を惜しまないで当たられていました。
その山村さんが余命幾許もない状況で入院されているのに、誰も見舞いに来ないとはどういうことだ。
私は山村さんを池田大作先生に激励していただきたく、昭和58年4月6日にお手紙を書きました。
○ ○
「東奔西走の御活躍の折、御心を悩ますが如き御報告を致しますことを御許し下さい。
本日、厚生年金病院に癌で入院中の『週刊読売』デスクの山村圭一氏を御見舞致しました。同氏は御存知の通り長年に亘り学会に多大の貢献をなされてこられました。四、五日前に御伺い致しました時よりは素人眼にも病状が更に一層悪化していることが窺われました。
本人は、臨月の如くに腫れ上がった腹を抱えて気息奄奄としてベッドに横たわっておられました。その痩せた体にかつて『週刊読売』編集部で鬼軍曹と呼ばれた面影を見とることははなはだ困難な有様でした。
ただ涙を浮かべながらもなお眼光鋭く以下の如く語っておられました。
『自分はこういう目に合わないと観念でしか仏法がわからないんだ。いまはもう自分で体を起こすこともできなくなった。一番苦しい胸突き八丁の時だ。一日二万遍の題目を上げている。息が苦しくて一時間に千遍上げるのがやっとだ。夜、眠れないので、その時も夢うつつに唱題している。早朝、薄明るくなるまでに七、八千遍上げないと間に合わない。どうしても元気になって、ブロックの人に再起の姿を見せたい』
更に私が携行の本を差し上げようとしましたところ、
『申し訳ないが気持ちだけ頂いておく。題目を上げるのに時間が足りなくて本を読む時間がもったいないんだ。死を生に切り返すのは並大抵のことじゃないよ』
と述べられておられました。
先日、御夫人より仄聞致しましたところでは、あと一ヶ月はもつまいと医者より言われたとのことです。当人は癌であることは勿論のこと余命幾許も無いことを感じている模様です。現在、ほぼ食事は喉を通らず腹にたまった水の為、内臓が肋骨の間にまでせり上がってくい込んでいるとの本人の弁です。
癌憎し心気高き人をして
地獄腹させ命とらんとす
何卒先生の御厚志と激励の御言葉を賜りたく御便りした次第です。
宜しく御配慮のほどを御願い致します。
最後に比類なき拙文乱筆を御詫びいたします。
敬具
昭和58年4月6日
北林芳典
池田大作先生
」
(以上第15報)