私が書いた山村圭一さんについての報告に対する池田大作先生よりのご返事は、数日を待たずに着きました。広報室の者1名と私が、ともに山村さんへの池田先生のお手紙を携えて、東京厚生年金病院を訪ねました。
池田先生からのお手紙は、墨書で巻紙に認められていました。澱みのない運筆でした。筆も止まってはいませんでした。
山村さんは、池田先生が『週刊読売』に連載をされたとき、その校閲を任され行なっていたので、すべての文字が読めると話しました。
事実、池田先生よりいただいたお手紙を、山村さんは一文字も余すことなく瞬時に読むことができました。お見舞いに伺った本部広報室の職員と私は、全文字を即座に読むことができませんでした。
池田先生は、心の底から山村さんのことを想い、慈悲深く激励されていました。
池田先生の渾身よりの励まし、そして慈しみ、それらのものが山村さんのみならず、お手紙をお届けした私の胸にもひしひしと伝わってきました。
この池田先生よりのお手紙が山村さんに届く少し前より、山村さんはお見舞いに来られた方々を例外なく折伏していました。
山村さんの話によれば、相手、あるいは自らの立場を斟酌し、長いつき合いであるのに折伏をしなかった人も多々、あったということでした。
たしかに読売新聞社の幹部社員ともなれば、そのような配慮をしなければならない人もいたことでしょう。しかし、山村さんは厚生年金病院のベッドに横たわりながら、残された時間を如何に生きるかということに収斂され、自分なりの覚悟を抱かれ折伏をされたのだと思います。
病床にありながら自らの折伏精神を鼓舞し、実践しようとしている山村さんの姿に、私はただただ感動しました。
池田先生よりのお手紙を読み終えた山村さんは、
「生き延びて5月3日を迎え、会長就任を祝う。それが今の私にとって一番大事なことだ。今までの自分は観念の上で師弟を考えていた。それは間違いであるということがよくわかった」
と、端的に決意を示しました。
その言辞の奥には、生死を超えた山村さんの信仰心が窺えました。
不思議なことがありました。
5月3日の会長就任記念日の翌日、すなわち5月4日の午前10時30分、私のポケットベルが鳴りました。このとき私は、家で唱題をしていました。
今の私をポケットベルで呼ぶ者がいるとは思えませんでした。このころ私は、何の仕事をしようか色々と考えていました。深い悩みの中にいたのですが、いまだ葬儀社をしようなどと決意するには至っていませんでした。
「果たして誰が、私のポケットベルを鳴らしたのか」
唱題をしながら考えても、無職の私に連絡をしてくる者など思いつきもしません。
しかしながら、もし私に会いたいと連絡をしてくる人がいるとしたら、入院中の山村さんだけです。
私はナースセンターに電話を入れました。すると看護師の方は、
「お身内の方でしたら、すぐ来てください」
と言ったのです。
慌てて飯田橋の病院に向かいました。山村さんを囲んで夫人、お子さん3名、折伏の親の吉原さん、そして私が唱題をしました。
山村さんが皆と同じテンポで唱題をしていることは、山村さんのかすかな歯の動きで確認できました。やがて歯の動きも止まりました。午後1時3分、見事な臨終でした。
のちに家族の方から不思議な話を聞きます。私のポケットベルが鳴った午前10時30分、気息奄奄として横たわる山村さんが、
「もうすぐ大山が来る」
と言ったというのです。私のペンネームは「大山正」です。山村さんは私を呼ぶ時、「北林」ではなくいつも「大山」と呼んでいました。
(以上第16報)