昭和58年9月26日(月)、27日(火)、28日(水)の3日間、杉田一郎より葬儀についてのレクチャーを受けました。私は、杉田の辞表について正式に受け取ったかどうかについては、言及しませんでした。しかし両者にとって、杉田の月末辞職は了解事項でした。
杉田から私への葬儀についてのレクチャーが、3日目に差し掛かった28日、葬儀の依頼が入りました。
巣鴨でお樒売りをしていた時に、私の名刺5枚を持っていったあの大崎君よりの紹介でした。あの時に渡した5枚の名刺の1枚が、㈱報恩社の最初の葬儀に結びついたのです。
綺麗な女性の方でした。病死でした。ご自宅でお通夜、告別式を行ない、落合斎場において荼毘に付すということに決まりました。
このご葬儀が進行している最中、杉田が突然、
「落合斎場に行くのは、社長しかいない」
と言い始め、
「私とアルバイトの時光、阿部の3名で片づけはします。私が目の前で指示を出さないとスムーズにはいかないでしょう」
と言うのです。
そのような経緯で、私は東礼自動車㈱の霊柩車に乗って落合斎場へ向かうことになりました。東京の火葬場に行くのは上京以来、初めてです。火葬場に行って何をしたら良いのか、さっぱりわかりませんでした。どう考えても、わかることではないのですから、隣に座っている運転手に聞くしかないと思いました。
「すみません。私、今日、アルバイトで来ているのですが、東京で一度も火葬場に行ったことがないので、何をしたら良いのか、さっぱりわかりません。教えてくれますか」
こう私が申し出ると、霊柩車の運転手は、快く受けてくれました。
裏ではこのようなことがあったのですが、ご喪家にご迷惑をかけることもなく、ご葬儀は終わりました。
このご喪家について、もう一つのエピソードを記しておきます。このご喪家は、地元学生部のために、ご自宅の一室を拠点として提供してくださっていました。その拠点の仏壇は、私が結婚前まで使っていたものだったのです。そのお宅が、㈱報恩社の最初のご喪家となったのです。
爾来、私はご葬儀をさせていただくご喪家の方々とは、目には見えないけれども、必ず仏縁があると思っています。
その最初の方のご葬儀をしている時、同じ支部内でご婦人が亡くなられました。その方は病院で亡くなられ、ご自宅のアパートの一室に戻られ、ご葬儀は落合斎場で行ないました。
3番目のご葬儀は、事故死の方で、警察署で検死をしました。事件性はないということで地域の集会所でご葬儀を行ない、都営の瑞江葬儀所でご火葬しました。
このご葬儀を終了し車を運転して会社に帰る時、大きな交差点を通りました。疲れ切っていた私は、赤信号に気づかずそのまま通過してしまいました。私はゾッとしました。幸い事故にはなりませんでした。
㈱報恩社発足時に執り行なったご葬儀は、次のようなものでした。
①ご自宅でご葬儀をあげられ、落合斎場でご火葬。
②病院で亡くなられ、いったんご自宅にお戻りになられ、落合斎場でご葬儀、ご火葬。
③事故死で警察が検案扱いとし、団地の集会所でご葬儀をあげ、都営の瑞江葬儀所でご火葬。
ご葬儀のパターンは、大きく分けてこれら3つに集約されます。私は御本尊様にご葬儀の仕方を教わることができたのです。
なお、3件目のご葬儀終了後、杉田は解雇しました。
(以上第19報)