私は昭和46年2月より、㈱新社会研究所に勤務しました。そこでは月刊誌『情報パック』の編集にあたりました。編集部は、㈱潮出版社から来た秋田谷幸雄さんを編集長とし、私と竹岡誠治の2名が編集部員という、3名の体制でした。
そもそもページ数が少ないとはいえ、一冊の月刊誌を作るには、過度に人員の少ない体制でした。この3名の体制は、翌年8月に『情報パック』が廃刊になるまでずっと同じでした。編集部の新入社員2名、つまり竹岡と私ですが、竹岡は広島市、私は呉市出身で同郷でした。その上、2人とも学生部の同じ第14部に所属し、さらに学生部機関紙局でも、ともに活動をしていました。
竹岡が『情報パック』の原稿依頼をしていた一人に、『週刊朝日』の元編集長である扇谷正造という人がいました。この人は当時、〝出版の神様〟と言われていました。その扇谷に、
「編集は何名でやっているのですか?」
と聞かれました。竹岡は、まさか3名でやっているとは言えないので「6、7名」と答えました。それに対する扇谷の反応は、
「えっ、私は30名くらいでやっているものだと思っていましたよ」
というものでした。竹岡は、逆に大いにびっくりして、すぐ私にその話をしました。
私たち3人は、月のうち3分の1を編集室で起居していました。ベッドは、机の上でした。当時はあまり考えたこともなかったのですが、私たちは極限的なオーバーワークだったのです。
そうした過酷な状況の中でも、2人の将来を嘱望してくれていた編集長の秋田谷さんは、私たちのために教育係をつけてくれました。
その人は『週刊読売』の経済部デスクで、しかも〝鬼軍曹〟と呼ばれていた山村圭一(仮名)さんです。山村さんは創価学会員で、秋田谷さんと組織的にも近く、互いに気心の知れた間柄でした。
なお山村さんが教育係という役割を引き受けてくれたのは、秋田谷さんとの個人的関係によるもので、あくまで内々のものでした。山村さんは〝鬼軍曹〟と呼ばれるだけあって、怒ると大変な迫力でした。
私は一度、山村さんに原稿依頼をする時、原稿の締め切り日を一日早く頼んだことがありました。しかも私はそのことを忘れていました。翌日、気づいた私は泡を食って山村さんに電話をしました。その時、山村さんにこっぴどく叱られたことは、今日になっても忘れません。
山村さんと私はよほど縁が深かったのでしょう。私が江戸川区東葛西の分譲マンションへ昭和53年3月に引っ越しをしたところ、山村さんもそのマンションを購入し引っ越してきていたのです。
本当に不思議なことでした。
このころ山﨑正友を巡る状況は、大きく変化しました。
昭和56年1月24日、山﨑が逮捕されました。そして山﨑は7月6日に保釈されました。同年7月18日、北条浩創価学会第4代会長が死去されました。
私が北条会長に最後に会ったのは、北条会長が亡くなられる丁度、1カ月くらい前のことでした。私は人の良い北条会長を騙し、利用し、命が削られるような苦渋の中に沈めた山﨑だけは許せないと思っていました。北条会長はこのとき、すでに持病があったようです。亡くなられた後で、そのことを聞きました。
私は山﨑を叩き潰したいと強く思っていました。さらに言えば、「善に順じて悪に抗う」ことを決意した次第です。
そのためになんらかの事業を起こし、55歳の時には出版社を作ろうと思っていました。
(以上第14報)