私と河辺慈篤が初めて会ったのは、昭和54年の8月下旬ごろでした。その時、河辺は四国の古刹である敬台寺の住職でした。翌年の6月、河辺は東京・江東区の妙因寺住職として赴任してきました。
私はこの当時、江戸川区の葛西に住んでいました。妙因寺が私の所属寺院であったこともあり、何かと行き来をするようになりました。
河辺は地元の創価学会幹部などに、
「北林さんは宗門の恩人だ」
などと話してくれていました。
この昭和54年は、山﨑正友が創価学会側より3億円の恐喝をした年です。金銭の授受は、4月に行なわれています。
山﨑はこの年が明けたころから、自らが始めていた冷凍食品会社(㈱シーホース)にまつわる資金繰りで、汲々としていました。
その難局を乗り切るために、山﨑は私にある企画を持ち込んできました。山﨑は電話で私に、
「『実録 宗教戦争』を書かないか」
と持ちかけてきたのです。
私は、山﨑の手口を良く知っています。私に書かせて、あとは創価学会より金を強請り取る。山﨑の手口は、その程度のものです。人を利用するだけ利用し、使い捨てる。私には、このような小狡いだけの男とつきあう気持ちなど、さらさらありませんでした。
山﨑が『実録 宗教戦争』の企画を私に持ち込んできて、それを即座に断ってから4カ月。宗教評論家の丸山照雄のところに行っていた、のちに㈱報恩社の専務となる佐藤雅明が、次のようなことを言われました。
「大山は創価学員ではないか?」
私のよく使うペンネームは、「大山正」でした。
なお佐藤は、私が豊島区学生部の本部長であったとき、第3部の副部長でした。丸山がつまらぬことを言ってきた時、私と佐藤は、学生部の組織で出会ってから9年を経ていました。
そのころ、山﨑に対する債権者の攻勢は、日に日に厳しくなるばかりでした。㈱シーホースの中に残っていた情報源も、山﨑の逼迫した状況を知らせてきていました。背に腹は変えられない山﨑が振り出した手形は、金額の記載のあるものだけでも10億円に達していました。それ以外に金額もその余の記載事項も書かれていない白地の手形帳をバラ撒いていました。
そのようなことをすれば、自分が墓穴を掘るだけなのに、山﨑は狂ったように決済の見込みのない約束手形を振り出し続けました。中にはヤクザ者に渡したものもあります。
山﨑は狂ったのでしょうか。
狂ったのは確かです。しかし山﨑はあくどい目的性を持って、手形を振り出し続けたのです。山﨑は、
「シーホースは、創価学会の事業である。私は創価学会から依頼されて、冷凍食品会社の経営を行なっている」
と口から出まかせの嘘を言い募ったのです。
山﨑の振り出した約束手形は、街金、ヤクザ者などに大量に流れました。それらの者が大挙して、創価学会本部に取り立てをしてくれれば、大混乱になり、自分は「空手形」を振り出した罪から免れ得ると考えたのです。
民事上の大きな事件となれば、捜査当局も入りづらくなります。山﨑は、そのことを狙っていたのです。
この山﨑の企みについて、一連の山﨑の事件を取材していた「朝日新聞」の松本正は、吹き出していました。
「そうはいかないでしょう。山﨑こそ報復される対象でしょう。創価学会は、6月5日に被害届を警視庁に届けました。これがあるから山﨑は24時間、警察に張り込まれています。だから命があるんです」
(以上第11報)