宗教評論家の丸山照雄が、
「大山は創価学会員ではないか?」
と現代宗教研究センターで私とともに働く佐藤雅明に、疑念を漏らしたのは昭和55年5月13日のことでした。山﨑正友の教唆のとおり動かない私への報復として、丸山に山﨑が暴露したことは明らかでした。しかし丸山と山﨑は、直接の面識がないのですから、おそらくは週刊誌の記者が山﨑の意図を汲み、丸山を焚きつけたのだと思います。
もとより、山﨑がそのような挙に出ることは私の想定の範囲内でした。
私は佐藤からの連絡を聞き、
「いよいよ来たな」
と思いました。私は反転攻勢のため、執筆する拠点を移し、『現代宗教研究』(第14号)を書き始めました。内容は山﨑の振り出した手形のうち額面が記載されているものの合計10億円余の手形を、ことごとく列記したものでした。その他、白地手形の通し番号なども掲載しました。
私は昭和48年に創価学会の外郭の出版社を辞し、宗教法人について報道する会社で月刊誌の編集長を務め、昭和54年春からは、佐藤とともに『現代宗教研究』を月刊で発行し続けました。長い間、宗教法人に関わる報道をしてきましたが、その最後が山﨑についての暴露記事になるとは、思ってもいませんでした。
記事も完成し、あとは配布するタイミングを計っていました。
昭和55年6月5日、北条浩創価学会第4代会長が警視庁に出向き、山﨑に対して告訴意思のあることを伝えました。
その時、北条会長がこの『現代宗教研究』(第14号)を携行し、
「これが真実です」
と言われたということを聞き、心底、良かったと思いました。
それより他に、朝日新聞社側にもこの『現代宗教研究』(第14号)が渡っていました。
おそらくは、本部の広報室あたりから、朝日新聞社側に渡ったのではないかと思います。
山﨑を取材したのは、当時の「朝日新聞」におけるナンバーワン記者であった本多勝一編集委員ともう一人でした。この記者たちに対して山﨑は、〝正義は我にあり〟といった様子で、滔々と数時間にわたり話をしました。
取材の最後の最後、「朝日新聞」の記者たちは、山﨑の目の前に、『現代宗教研究』(第14号)を広げました。
「この手形の一覧は、山﨑さんが振り出されたものでしょう」
山﨑の顔から突然、血の気がひきました。その上、山﨑は手まで震わせ始めたのです。
「朝日新聞」の記者である2名はそれを見て、山﨑は、まったく信用できない人物であると評価を定めました。
山﨑が「朝日新聞」に目をつけていたのは、理由があります。山﨑は創価学会に対し、言論問題の時と同様の包囲網を作ろうとしていたのです。つまり、民社党、共産党、そして「朝日新聞」による包囲です。
警視庁は山﨑に対する内偵を進め始めました。警視庁は創価学会による告訴を受理し、11月5日、山﨑を事情聴取しました。
山﨑は、事情聴取をされながらも、しぶとく『週刊文春』誌上において「創価学会最高幹部七人の内部告発」という覆面手記を昭和55年6月19日号より9月18日号まで計14回、連載しました。断るまでもなく、内部告発をしているとされる「創価学会最高幹部七人」などはいませんでした。実在していたのは山﨑一人です。
さらに山﨑は、実名を出して「山﨑正友手記」を昭和55年10月9日号より19回に渡り、発表しました。山﨑はこの手記において、自らを〝正義の内部告発者〟のように装い、なんとか逮捕を免れようとしたのです。すなわち『週刊文春』が、初めに「七人の内部告発」者がいるかのように装わせ、後に実名を出して同じ主旨の主張を山﨑にさせたのです。
一つのネタを二つにして焼き直す。この手法は、売らんがためになんでもする週刊誌などにおいて、よく使われる手口です。こうなれば週刊誌は当然のことながら、公平な報道をするという社会の公器としての役割を、自らかなぐり捨てたということになります。
最後の局面である『週刊文春』(昭和56年1月29日号)の手記に、山﨑は次のように書いています。
「私もトンボやチョウチョと違うから、そうかんたんに面白半分につかまるわけには行かない」
『週刊文春』は、被疑者である山﨑に手を貸し続けていたのです。
(以上第12報)