私は「伸一会」の第3期です。昭和59年8月6日、「伸一会」の総会が長野研修道場で開かれ、私も参加しました。
総会の始まる前、「伸一会」のメンバー一人びとりに、池田大作先生より、
「皆、表に出てくつろいできなさい」
とのご伝言がありました。私を含め〝軽井沢初めて組〟が結構いました。多くの者が集団を作り研修道場より表に出ました。当然のことながら、総会に来ているのですから、全員が背広にネクタイです。
軽井沢の人々にとって、この姿で集団になり歩かれること自体が、大変な迷惑なのです。まかり間違ったら、反社会勢力と思われる可能性さえありました。地元の一般の方々が、何やら意識していることもわかりました。この避暑地の空気を感じ、皆して早々に研修道場に戻りました。
門を入ると建物の向かい側の木立の中に、白いガーデンテーブルが1つ、2つ、そして白いガーデンチェアが7つ、8つぐらい置かれていました。
このガーデンチェアに池田先生が座られ、総合青年部長であった野崎勲さんらと談笑されていました。私が100メートルくらいの距離に迫ったとき、池田先生が席を立たれ、私のほうに向かって歩いて来られました。池田先生は私に向かって開口一番、
「よう、元気か? 商売は大丈夫か?」
と声をかけられました。
「借金は?」
「1800万円あります」
「そうか、借金は男の信用だ」
池田先生のこの一言で、気持ちが楽になりました。
池田先生には、次のようにも聞かれました。
「会社の名前は?」
「報恩社です」
「どういう思いでその名前にしたんだ」
「先生の庭先で商売させていただいている御恩を、片時も忘れないためにこの名前にしました」
「この男は、筋を通す男だ」
続けて池田先生は、
「馬鹿になれよ、馬鹿になってやるんだ。私も馬鹿になってやってきた」
と言われました。また池田先生は、
「私はこれまで5、6万人の人に会い激励をしてきた。だからわかるんだ」
と言われ、
「私が死んだら、いい宣伝になるんだけど、そうもいかないな。みんなで応援してあげろ。この男は私心のない男なんだ。君は頭がいいな。人斬り以蔵みたいだな」
とユーモアを交えて話されました。そして池田先生は、次のようにも言われました。
「どうだ、白蓮社とエリアを分けるか?」
それに対し、私は次のように答えました。
「会員のためには、両者が切磋琢磨したほうが良いと思います」
このとき周囲には、聖教新聞社広告局の人たちが4、5名いました。池田先生は、それらの人々に対し、
「ここにいる人たちだけでも、報恩社を推してやってくれ」
と言われました。さらに、
「会社と君のことを、祈っているよ」
とも言っていただきました。
池田先生との会話は30分を超えました。自分のためだけにあったような時間でした。
「伸一会」終了後、当時、副会長であった原田稔さんが、富士白蓮社の羽吹栞社長他1名と私を創価学会本部に呼び、池田先生よりのご伝言を伝えてくださいました。
「兄弟だと思って仲良くやりなさい」
このことは、折りにふれ今も社内に徹底しています。
(以上第20報)